旅をする

古代統一戦乱の名残 吉備という場所で考えた

2017年の記憶 #34 昔に撮ったiPhone写真から引っ張り出してきたあれこれ

日本の古い地名を見るとあれこれと思うことがある。九州でいえば筑前、筑後、つまり筑紫の国の全部と後部で、前がつく方が都に近いという命名則だったと思う。そして、この前後がつく場所、国名が大和朝廷の征服の証というか統一戦争の経過を示しているのだと思っている。現在の大分県あたりにあった豊の国、熊本県と長崎県に広がっていた火の国が九州の在来勢力で、熊襲や隼人と呼ばれた南九州勢はおそらく最後まで対抗していたので、国名すら無くしたような気がしている。中国地方では最大勢力はおそらく出雲で、当時のメイン海上ルート、大陸との交易路を押さえていて鉄器製造ノウハウがあった。出雲神、スサノオを自国神話に取り込まなければならないほどの強大な勢力だったはずだ。そして、吉備国は瀬戸内海上ルートを押さえる一大勢力だった。だから征服後は、備前、備中、備後と三国に分割してまで統治しなければならなかった。などと古代日本の勢力争いに空想を巡らせるのは楽しい。

こんなことを思うのも、神社の形が出雲や吉備国でずいぶんと異なっているからだ。神社の形は、古代ではその地方独立国の象徴みたいなものだから、統一戦争時の遺産みたいなものだと思う。吉備津神社の屋根は美しい。唐招提寺に代表されるシンプルで巨大という「外来思想」に支えられた建造物とはちょっと異なるような気がする。二つの屋根が描く曲線美は何か特別な象徴があるのだろう。おまけに吉備国には、「吉備神社」と「吉備津神社」がある。明らかに怪しい。戦国末期に東西分割された浄土真宗みたいな気配が濃厚だ。政治的配慮というか、宗教の政治利用だろう。桃太郎の国岡山県は、古代日本の統一戦の山場だったのではないだろうか。

本殿から続く回廊は、やはり宗教的な意味合いがあるようだが、建築物としては様式美の極みだと感じる。大和朝廷が西日本のどこかで生まれて西日本を統一した過程で、神社の様式もかたまっていった。ただ、その後の東日本制覇はまた別の展開で、その名残が諏訪や鹿島あたりの歴史ある神社に残されている。当時の主要交通路は陸路ではなく海路であったことを念頭に置いて色々と空想すると、旧国名に潜んだあれやこれやを楽しむ時間になる。関東北部の毛の国とか、北陸「越」の国とか、「安房」と上総下総の位置関係とか、「えみし 蝦夷」との抗争とか。東日本も古代浪漫の舞台なのだが、それはまた別の話で。

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